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2013年1月

2013年1月27日 (日)

★これが坂本龍馬ゆかりの地、「八畳岩ぜよ」-#1

高知市内から車で30分ほど行った北方の山の上、柴巻に高知市街地を見渡せる「八畳岩」があります。

柴巻には、坂本家の持ち山があり、その管理を任されていたのが田中家。このため、龍馬もここをよく訪れ、子供たちと遊んだり兎狩りや囲碁、将棋などを楽しんだと伝えられちゅう。

1353237052673 龍馬はよく、この「八畳岩」にのぼり、田中家の人々と酒を酌み交わしていたようやき。時には、一人で、じっと彼方を見つめていたことやろう!!

上っていくと、「八畳岩」というだけあって、大きく平らになっちゅう。高知城下はもちろんのこと、とっと向こうに見える水平線が太平洋ぜよ。

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桂浜もそうやけど、天と地と海を雄大に感じさせてくれるぜよ!!

まあ、動画アップしたきに見とうせ!!

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2013年1月 6日 (日)

★坂本龍馬青春の地、田中良助旧邸訪問-②

昨年、2012年11月18日(日)に、坂本龍馬青春の地として知られる、高知市柴巻にある田中良助旧邸と八畳岩を訪ねた時の、動画をアップしました。また、写真も撮ったき、観て下さい。

◆柴巻での龍馬の伝承
龍馬が柴巻に滞在した折りには、屋敷にある小さな池にたらいを浮かべ、近所の子供たちをそこに入れて水遊びに興じたという話があり、ある時には北辰一刀流の腕前を披露するために、庭に飛び交っている蛍を刀で切ったところ、蛍がばらはらになって飛び散り、そこで北斗七星の形となって浮かんだという。これはあまりにも出来すぎた話になっているが、このような誇張された逸話が言い伝えとして残っているところが龍馬らしい。

龍馬と良助か酒を飲みながら、碁遊びに夢中になっていた折、庭に干してあった籾が夕立の雨にいくら濡れていても、そのうち女房が気がついてしまい込むであろうと平気だったというから、良助もまた豪放な人物だったと思われる。(広谷喜十郎)

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◆田中良助旧邸の建物及び石垣について


今回の復元工事で、建築時の大工さんの書いた墨書が軒桁の仕口から見つかりました。この墨書には、古い年代と新しい年代の二つの年代が記されています。

 古い墨書  文久二年戊之正月吉日 大工 佐吉作 松印

 新しい吊書 明治弐拾壱子年旧九月廿日 遠(建)替 柴巻村 永野弥之助作

復元時の調査や家人の聞き取りから、文久二年(一八六二)に建てられた屋敷は、現在の建物の西の畑にありました。建物の形式は、土佐の山間部によくある民家型であったと思われます。古い墨書には「文久二年正月」と日付が明確に記されていないことから、文久元年に棟上げがおこなわれ、文久二年の正月は新しい建物で新年を迎えたいとの良助の願いが込められていたと推測されます。

建物に使われている再々利用の古材の多さから、龍馬が幼いころ手に触れた家も同じような形式だったと思われます。また文久元年十月一四日に龍馬が良助から金二両を借用した時は、完全な形で完成はしていなくとも、この屋敷で借用証文が取り交わされ、龍馬が寝泊まりしたことでしよう。

明治一九年に犬きな台風が高知県を襲い、良助邸も被害にあったようで、明治二一年(一八八八)風当りの少ない現在地に移築されたことが新しい墨書から推測されます。このとき建物は土地の形にあわせて縮小され、屋敷の南側には風除けのための石恒が西の屋敷の石を一部転用し、新しく築かれました。

この墨書の発見により、田中良助旧邸は.一四二年以上を経ていることが明確となりました。その上に、坂本龍馬との深いかかわりからも貴重な建築物といえます。(上田堯世)

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★坂本龍馬青春の地、田中良助旧邸訪問-①

昨年、2012年11月18日(日)に、坂本龍馬青春の地として知られる、高知市柴巻にある田中良助旧邸と八畳岩を訪ねた時の、動画をアップしました。

坂本家は、田中良助邸の周辺に、坂本山と呼ばれるほどの持ち山があり、田中家はその管理を引き受けていた家。このため龍馬もよく柴巻を訪ね、良助と兎狩りや碁や将棋を楽しみ、邸横にあった池では、子供たちとよく水遊びをしたと伝えられる。

◆龍馬の借用証文
龍馬が書いた借用証文は不思議な借用証文です。なぜかというと、青年龍馬に対して担保なしに、しかも1人の保証人もつけずに、良助が二両という大金を貸しているからです。これが田中家の襖の下張りから、偶然に見つかった時には真偽の論議がおこったほどでした。

しかし、その後発見された田中家の文書の中に、借用書の下書きが出てきて話題になりました。これは良助か下書きを龍馬に示して、これを参考に書いて下さいと言っているようで、担保物件や保証人の箇所がないことから、はじめから良助か龍馬に要求していなかっ
たことがわかります。それだけ両人の間柄は、普段から親しい関係であったといえます。

金二両の使い道については、龍馬は表向きは讃州丸亀方面に剣術視察と称して旅行することになっていましたが、実は土佐勤王党首領の武市半平太の密命を受けて長州から大阪方面まで足を伸ばすことにしており、その旅費の足しに充てたのです。当時の長州は藩の方針として公武合体論をとり、急進的な尊王攘夷派を押さえていましたが、それに対して長州の久坂玄瑞ら勤王志士たちは自分たちの主張を実行しようとの決意を持っていました。そんな長州の熱情に接した龍馬は、大きな影響を受けたと思われるし、わざわざ大阪方面まで足を伸ばしたのは、国内情勢が大きく変化しているありさまを身を持って見ておきたいという強い衝動があったに違いありません。

それだからこそ、これらのことが引き金となり、約一ヵ月後文久二年(一八六三)三月二十四日に沢村惣之丞とともに土佐を脱落しました。

丸亀に出立の前に、龍馬は柴巻で数日間を過ごしています。これは、単に金策にいっただけでなく、良助に政治的に決断しようとしている思いを打ちあけていたのではないでしょうか。良助も借用証文を龍馬の形見のつもりで保存していたので、坂本家へ返済の催促をしませんでした。

龍馬は良助と八畳岩の上で酒を酌み交わしながら、日本の行く末などを語りあって、日本の表舞台へ出る覚悟を披瀝していたかも知れません。龍馬二十七歳、良助四十二歳のときでした。(広谷喜十郎)

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